一目見ただけで心が乱れた恋|新古今和歌集・春日野の若紫の和歌を現代語訳で読む
koiwaka
恋愛和歌集
足引きの 山田守る庵に 置く蚊火の
下こがれつつ わが恋ふらくは(新古今992・人麿)
山あいの田んぼを守る、
人影のない小屋がひとつ。夕暮れが落ちて、
世界の音が細くなるころ、
蚊を追うために焚かれた火は、
勢いよく燃え上がることもなく、
ただ、息をするように
くすぶり続けている。誰にも見られず、
役目だけを与えられた火。私の恋も、きっと同じだ。
燃え上がるほど許されず、
かといって消えてしまう勇気もなく、
行き場のない熱だけが、
胸の奥に残されて。夜が深まるほど、
静かに、
じわじわと、
私を焦がし続けている。
この歌を詠んだのは、柿本人麻呂。
万葉集を代表する歌人で、
感情を「風景」に溶かす名手だ。
舞台は、
山田を守るための簡素な庵。
人と人が離れた、
孤独が前提の場所。
そこに置かれた蚊火は、
命を守るための火でありながら、
決して明るくはならない。
この和歌のエモさは、
恋が進んでいないことにある。
恋のピークも、
告白も、拒絶もない。
ただ、続いてしまっている感情だけがある。
これは
「燃え上がる恋」じゃない。
そんな恋は、
一番エネルギーを奪う。
静かだからこそ、
一番、長く苦しい。
燃えない恋ほど、心の奥を焦がし続ける。